第4回.わけがわかってくるまで

技術経済協力局には、各隊員のカウンターパート(隊員とペアで活動し、技術供与を受ける現地人スタッフ)が迎えに来てくれていて、彼らといっしょに任地入りします。私のカウンターパートになる方は、もう50近くにもなろうかというおじさんでしたが、実はすごい人なのでした。ずいぶん後から知ったのですが、彼は日本に留学して阪大工学部の学士とマスター、ドクターを取得した工学博士で、タイに帰った後も毎日定期購読している朝日新聞の切り抜きをやっているというとんでもない方です。日本にも第二の家族がおられるとかおられないとか(^^;。タイと日本の仕事のやり方の違いや、タイが発展途上である原因も知り尽くしておられたようですが、ご多分に漏れず、半年後には日系企業に引き抜かれてゆく運命にありました。

彼のうちに2週間ホームステイでご厄介いになりました。彼の奥さんはカセサート大学の講師(ひょっとしたら助教授か教授?)で、まあタイとしてはトップクラスの家庭でしょう。ふつうの家ではまずお目にかかれない、浴槽付きのちゃんとしたお風呂もありました。タイでは風呂に入るという習慣はありません。古くは川で、現在はシャワー室で1日に何度となく水のシャワーを浴びるのです。大きな川を船で行ったりすると、いまでも水浴びをやっていて、子供たちが手を振ってくれたり、ハダカで泳いだりしています。

その間に部屋探しをしたり銀行に口座を作ったりと、せわしない日々が続きました。世話をしてくれたのは彼の秘書で、30代くらいの女性です。彼女のダンナさんは日系企業の重役さんとかで、彼女もダンナさんについて1、2度日本に行ったこともあるそうです。日本語はからきしダメでしたが。彼女の車でいろいろ回ったのですが、不動産屋を回るわけでもなく、知り合いのつてでめぼしいところを回っているふうでした。ほどなく、私は職場から10kmほども離れたアパートに住むことになりました。銀行に口座を作るときも、保証人が必要だったみたいで、彼女が保証人になってくれました。これで、朝7時から夜10時までやっている銀行のATMが使えるようになりました。この点だけは、当時の日本より進んでましたね。景気もすごくよかったので、現地の銀行に預金すれば、利息も5〜10%ほど付いていたようです。人件費も毎年うなぎ登りでした。今考えれば、あれがタイのバブルだったのでしょう。

カウンターパートは優しい方でした。いっしょに働いた時間は短かったものの、すべてを悟っていたようでした。「私は日本語も英語もわかるけど、あなたはタイで働くのだから、これからはタイ語だけで話すようにしてください」と最初に言われましたし、私が「回りはドクターだらけですよ。大学も出ていないような僕の言うことを聞いてくれるんでしょうか」などと不安を口にすると、「私は所詮タイ人です。どんなに経験を積んでいても、タイ人はタイ人の言うことを聞かないんです。日本人である君が改善案を出せば、彼らはきっと耳を傾けてくれますよ」などと励ましてくれました。当時のタイにとって、日本という国は、昭和30年代の日本におけるのアメリカのような存在だったのかもしれません。

私が配属された職場は、保健省医科学局管轄、タイ国立衛生研究所(JICA --- 国際協力事業団 --- の支援により設立されました)の中にある、科学機器センターというセクションで、カウンターパートがそこのセクション長を勤めていました。国立衛生研究所自体は、医科学局の研究機関で、所長は副局長を兼ねる女性でした。一般的に協力隊員は結構なステータスを持っていて、配属されたところのトップと話をすることも多いと聞きますが、さすがにタイは発展途上国のなかのトップクラスであり、そこの中央省庁に配属された私が所長と話をしたのは、何かの食事会に呼ばれたときの、ただ1回きりでした。

なぜ私が期待されなかったかというと、(私がふがいないせいもあるんでしょうけど、)その研究所はJICAが設立した後、まだプロジェクト(タイからの要請によりJICAが企画したと思われる、国立衛生研究所における研究推進プロジェクト)が続いていて、日本から専門家の方々を多数招聘していたからです。協力隊はJICAの外郭団体みたいなもので、隊員は単なる一時的なボランティアに過ぎませんが、専門家というのはJICAが直に日本の大企業や公共団体に依頼して派遣するもので、私たちの手当の10倍とか20倍とかの給料をもらって技術供与をするエライ人たちです。現地語で教える人なんてほとんどいませんし、ほとんどの人は片言の英語と日本語で教えます。この施設を作るにあたり、前もって各セクションの研究員を日本に送って研修を受けさせておりますので、技術用語に限れば、日本語を知っている人も結構いました。こういった、エライさんがたくさんいる特異な職場でしたので、現地スタッフに、「なんでお前は車で来ないんだ」なんて理不尽なことも言われました。

協力隊員と専門家の待遇についてちょっと。協力隊員は所詮「自発的に参加したボランティア」ですので、基本的に無給です。しかしそれではたいへんだということで、日本政府が生活費を支給してくれます。これは国ごとに決まっていて、当時のタイではひと月$315でした。これは各国の生活状況を勘案して事務局で決められています。これが当時の東京銀行の各自の口座に振り込まれ、これを引き出して現地の銀行に預金します。タイバーツでは毎月8000バーツ(約4万円)程度になりますが、これでも現地の公務員の課長クラスの待遇です。これがネパールとかになりますと、大臣クラスになるそうです。で、裕福かといいますと、「任地次第です」ということになります。へんぴなところに派遣された隊員は、「金を使うところがないんだよ〜」とぼやいていて、バンコクに来たときにどーんと使ったり、これを貯金して任国外旅行(1年経過後に、2週間ほどの海外旅行が認められています)に行ったりします。ところがバンコク隊員であった私には、生活するのがせいぜいで、任国外旅行もあきらめました。アパート代だけは別に事務所が出してくれましたが。

専門家の場合はちゃんとお国の仕事として来ていますので、企業からの海外出張に準ずる報酬がもらえます。プロジェクト・リーダの方は、ひと月100万円くらいもらっていたようです。専門家は例外なく、すべてお抱え運転手付きの外車(といっても、タイの国産車はありませんでしたのですべて外車なんですけど(^^;)で通勤します。「なんでお前は車で来ないんだ」というのはこういうことです。

私の通勤風景はかわいいもので、まずアパートを出ると、2kmほど離れた表通りに出るためにソイタクシー(幹線以外の道路のことをソイといいます)に乗ります。これはトラックの荷台に幌をつけた物で、1回2バーツ(約10円)でした。表通りに出ると普通のバスに乗り換えます。エアコン付きは5〜15バーツですが、これは空港行きなど比較的長距離の路線にしかありませんので、エアコンなしに乗ることになります。エアコンなしはどこまで乗っても2バーツです。エアコンがないので窓は全部開けっ放しで、ドアも開けっ放しです。ドアの上のところには横向きにつけた手すりがあり、ここが特等席です。ここに片手を引っかけて、片足をステップのところにかけ、もう一方の手にはアタッシュケースを下げ、バスから半身を乗り出して風の中を走るようにすれば、サウナのような車内にいなくても済みます。まあ、街路樹がはみ出していたりしたらあぶないので、そのときはさっと車内に身を隠します。停留所に着く度に外に降りて、しびれた手を休ませます。そうやって7〜8kmほどゆくと、目指す職場のソイの入り口に着きますので、そこで降りてまたソイタクシーやソイバイク(これは5バーツ。渋滞しているときは重宝しました)で職場へと着きます。

ここでノルマのページ数が尽きてしまいましたので、次回は自分の仕事について書きます。といっても、半年間は仕事ができなかったのですが。