第3回.派遣先に赴任するまで

バンコクのドンムアン空港に降り立った時の第一印象は、「何か30年前にタイムスリップしたみたい」というものでした。30年前の日本といえば、経済成長著しく、働けば働くだけ豊かになれた時代でした。空港から市内へ向かうワゴンの中から周りを見渡すと、日本でも見慣れた製品のでかい看板が並んでいて、タイ語なんかわからなくても結構何の製品か分かったものでした。これは、当時のタイは日系企業の進出がすごくて(何でも、1年で200社が進出したとか。ちょっと異常ですよね)、それらの多くが日本の製品だったからです。

車の台数もすごくて、それがまた、とうに日本でお役御免になったような代物です。ドアの無いタクシーや床の抜けたバスなんかも走ってました。日本でスクラップにするような乗用車やバス、トラックなどがタイに持ち込まれ、それらが立派に現役で活躍していました。話によると、それらがタイで酷使され、どうにもならなくなったらまたラオス、カンボジア、ベトナムなどに転売(密輸?)されていたようです。それらの国に派遣された隊員の苦労が忍ばれます(^_^);結構まともな車はほとんど日本製で、あと目立つのは、木を組み合わせて作ったようなトラック、サムロ(日本のダイハツミゼットを改造して作った3輪タクシー。ドアも窓もありませんので、涼しくてスリル満点(^_^);タクシーより2〜3割安かった)。たまにベンツやBMWなども見かけましたが、なんとこれらはタイの町工場でトンカンやって作られてました(^_^);ライセンス生産をやっているところもあったようですが、どうもうさんくさい。カローラのフロントグリルだけベンツとか(^_^);

ちなみに、私がいた2年あまりの間に、タクシーやバスの多くは新車同然になりました。いかに当時のタイの経済成長がすごかったかを物語っています。

タイのタクシーは、多くがレンタル?です。これは、運転手が朝からタクシーのオーナに500バーツ(当時のレートで2000円くらい。結構大金です。当時の肉体労働で日給50〜60バーツ程度)ほど払ってその車を1日借ります。後は、その日のうちのアガリがレンタル料金より多ければ、それがタクシーの運ちゃんの儲けとなります。タクシードライバーは、金が無くてはできない商売です。料金は交渉制で、タイ語が話せれば英語に比べて約半額くらいでした(^_^);チップはタクシーにはあげません。

我々協力隊員は、現地の人と同程度の手当て(といっても、タイにおいては公務員の課長クラス程度はもらえます。当時は$315だったと思います。これは国ごとに決まっていて、国内では全員同額です)だけで暮らさなければならないので、自然と値切り交渉にも力が入ります。もともと日本人は、「価格というものは誰でも同一であるべき」という先入観がありますから、少しでも他の人より高い料金を払わされると「ボラれた」と思いますよね。帰国の日が迫るようになっていた頃、私はやっとあまり値切らなくてすむようになりました。タイ語が(発音だけは)現地人並みになり、相手が吹っかけて来なくなった(100%タイ人と思われてました。わたしもあえて否定しませんでした(^_^)v)ので、値切る必要がなくなったからです。また、持つものは持たざるものに与えるべき、という仏教的精神?が芽生えてきたからでもあります?

数日間のJICAでのオリエンテーションを終えて、今回の新人総勢7名は、バンコクの東約100kmにある、スィーナカリン・ウィロート大学バンセン校の水産研究センターの会議室(何とエアコン装備!)を借りて、そこで1か月間の現地語学研修に入りました。このセンターはJICAの援助で建てられたものですが、ここにはおそらくタイで唯一と思われる水族館(みたいなもの)がありました。宿舎は、大学の正門前にある民間のアパートです。語学教師は数人いて(もちろんタイ人)、皆さんあちこちで教えておられるらしく、英語もペラペラです。彼らも同じアパートに泊まり込みで教えてくれます。

後に、1人の語学教師の妹さんの結婚式に招待されたことがありますが、結婚相手がカナダ人のボランティアだったということもあり、半数以上が西洋人(そして日本人ちょっぴり)という、ちょっと変わった結婚式でした。で、件の語学教師は私たちより年下でしたが、とってもおもしろいお兄ちゃんで、各テーブルを回りながらタイ語と英語でジョークを言って、会場のあちこちを沸かせていました。ちょっと普通のタイ人ではなかったような。結局、結婚式に呼ばれたのはそれ1度きりだったのですが、バンコクのホテルで立食形式で行われたそのセレモニーは、見た目は日本の結婚式とそう変わらなかったと思います。ただし、仲人の挨拶だの来賓の挨拶だのとうっとおしいこともないし、酔っ払ってくだを巻いたりする人もいないし、法外なお祝い金(+_+)などもありませんので、日本の結婚式よりよっぽど良いと思ったことを付け加えておきます。タイの田舎で行われる伝統的な結婚式は、たぶん全然違った(それこそ、世界ふしぎ発見などに出てくるような)ものなのでしょう。

平日は朝から4時ころまでみっちり授業があります。授業が終わったら、めいめい好き勝手なことをしていました。学生や近所の子供たちと混じって遊んだり、買い物をしたり。ただ慣れないもので、洗濯一つとってもタイの習慣がわからず、コイン・ランドリーのようなものがあるかどうかも知らないので、各人が暇に任せてあちこち歩いてはいろいろと発見し、アパートの1Fにある喫茶店(例によって窓も壁もない、ガレージみたいなもんです)に集まっては隊員みんなで情報交換をします。別に何も注文しなくても店の人は何も文句を言うでもないので、その辺の人たちもみんなたむろしてます。誰がアパートの住人やらそうでないやらわかりません。

食事は近所の食堂(これも例によって窓なし壁なしです。むしろ屋根付き屋台といった方が適当か?)で取ります。外国に行って、言葉で1番不自由することはやっぱり食事ですね〜。一応駒ヶ根の訓練所で、タイ料理の写真を見ながら習ってきたつもりなのですが、私はもともと食自体にあまり興味が無く、このカテゴリだけは覚えられませんでした。最初はしょうがないので他の人が食べているものを指差したり、材料を指差したりして頼んでました。メニューなどは高級な店にしかありませんし、ましてや店の前に料理のサンプルがおいてあるところなどあるはずもありません。結局最後まで食事だけは、メニューがない場合は簡単なものしか注文できなかったですね。

食事といえば、後輩のコンピュータ隊員にすごい人がいまして、タイ語を半年でほぼマスターし(普通の人は2年かかってもマスターできません(^_^);)、日本に帰ってから日本語 Windows で動くタイ語ワープロなるものを開発しました。彼はタイ料理にもうんちくがあり、これも日本に帰ってから、タイ料理データベースなるものを作ってしまいました。これはExcel の表なのですが、日本語、英語、タイ語を1つの表にまとめた詳しい説明付きのすごいものです。彼は英語もペラペラ、漫画を書かせてもプロ級、クラシック音楽にも詳しい。世の中にこんな人がいたのかと思いましたね。後にタイ人と結婚したそうですが、今はタイに住んでいらっしゃるのでしょうか?K君、これを見てたらメールくれ〜(ちょっとホメすぎだった?)

アパートから10分ほど歩くとタイ湾に面している海水浴場に出ます。土日は海辺に行ってのんびりしていました。桟敷代も取られなかったような気がします。タイ人は、よほど(我々を含む)外国人とのつきあいに慣れてない限り、水着になることはありません。まず、泳げない人が多い。これは学校にプールがないからでしょう。次に、タイの女性はみだりに肌を他人に見せるのを避けます。これは宗教的な理由なのかどうか?で、彼らはTシャツのままで海に入ってはしゃいでいます。これのほうがよほど艶めかしいと思うんですけどネ。ちなみに研修期間中は、私たちもそこで泳いだような記憶がありません。海は思ったほどきれいではありませんでしたし。

ということで、無事に研修も終わり(関西の人たちはあいかわらず関西なまりのタイ語ですが(^_^)v)、バンコクに戻ってきました。そして、DTEC(Department of Techinical and Economic Coorperation だったか?技術経済協力局ということで、タイの対外援助の受入機関です)に行って、隊員みんなでタイ語でご挨拶しました。うーん緊張(^_^);

そしてみんなと別れを終えて、各自自分の任地へと巣立っていったのでした。