第5回.仕事ができるようになるまで

今回から仕事の話が入ってきますので、少し専門用語が出てきますがご了承ください。なるべく注釈を付けるように努めます。

とにかく言葉に苦しみました。片言の英語は使おうと思えば使えました。タイでも日本と同じで英語ができることはある程度のステータスになりますし、日本人と違ってはずかしがらずにどんどん話しかけますので、私が外国人と知るや、いろいろと話しかけてきます。何がわからないって、何語で話しかけられているのかわからないときほどいらいらすることはありません。職場の人はまだいろいろ気を使ってくれましたが、町角に出るともう大変です。一度など、なにを言っているかさっぱりわからず、「いったい何語でしゃべってるんだよ」というのをようやくタイ語で伝えると、何と相手は日本語でしゃべっていたのです。先入観とは恐ろしいものです。もっとも、相手はタイ語なまりのめちゃくちゃな日本語ですので、当然理解するのも並大抵ではなかったのですが。

私は一応外国語学科出身ですので(卒業はしてないんですけど(~_~;))、文法的に間違ったことを話すことに非常に抵抗がありました。会話がスムーズに流れないのが苦痛で、だんだんわからない言葉を無視するようになり、そのうち会話に溶け込めなくなっていきました。最終的には、日本語も含めてあまり雑談ができないという暗〜い性格に変わったような気がします。これは、現在もまだ引きずられています。海外経験を積んだことの中で、ただ1つのマイナス点になってしまいました。

とにかく語彙を増やし、物事を正確に表現するようにつとめました。システム・エンジニアとしての派遣でしたので、ソフトウェアの設計・開発などを教えないといけないのですが、これは言葉やスポーツを教えるのと異なり、実際に触れることのできない内部動作や概念を説明する必要があるので、ある程度高度な言語力が要求されると思います。と最初に自分で考えたので、ある程度しゃべれるようになるまでは仕事はしないつもりでした。

タイ(および一般的な途上国)では、雇用を確保するためでしょうか、一般の職員や社員以外に、日本で言うとパートのような、雑作業をするための人たちが非常な低賃金で雇われます。彼らの仕事は職場の掃除をしたり、(日本のOLの一部?がそうであるように)書類のコピーをしたり(コピー機のある職場に限られますが)、OLがFAXを送る代わりに、人間FAX(つまり書類の配達)などをやります。FAXだけは、当時は全くといっていいほど目にしませんでしたね。うちの職場はありましたが。なにしろ金満ニッポンが建てた施設ですからね(~_~;)

彼らパートの兄ちゃんたちは、ほとんどの時間は暇そうに時間を潰していましたので、私は彼らに目を付けました。彼にタイ語を習うことにしたのです。まず小学校低学年程度の本を買ってきて、辞書で訳しながらわからないことは何でも彼に質問しました。彼は高度な教育は受けておらず、なかなか文法的な説明はできないようでしたが、それでもいっしょうけんめい分からせようと努力してくれました。私も彼が示す例文をパターン分けしながら、言い回しを修得していきました。ほどなく、公文書に関しても辞書を引き引き何とか概要は理解できるようになっていきました。

4か月目くらいでしたか、数人で出張する機会があり、あなたもついてきてみませんかと誘われたので、ついていくことにしました。ここは中央省庁なので、定期的に地方の分局や分室の視察や指導を行うためだったようで、行き先は東北部のラオス国境に近いコンケンという地方都市でした。

タイ東北部はタイの中でも貧しいことで有名なところです。コンケンは大都市なので、ちょっと見た目はそう感じませんでしたが、実際に仕事の環境を肌で感じてみると、やはりバンコクとは大違いでした。施設自体は結構大規模でかつ小綺麗なのですが、まずなんと言っても研究所&事務所なのにエアコンがないというのは痛いです。内陸部は、日中は気温が50度ほどにもなろうというのに扇風機だけでは、タイ人でなくても能率が上がらないのはあたりまえです。それでも現地の人は思ったよりも勤勉に働いていました。日本人は勤勉だといいますが、ここまで発展できたのは、日本という国が、気候がたまたまいい場所にあったということも無視できないと思います。日本人がコンケンで彼らと同じ環境で仕事をすれば、現地人以上の仕事量がこなせるかということは、甚だ疑問です。一般的に途上国では、暑いから能率が上がらない、だから仕事がさばけずに経済が回っていかない、それで金が入らないからいつまでたってもエアコンが入らない、で暑い。気候のハンディはいかんともしがたいですね。

ここで忘れられないできごとがありました。その研究所の食堂で食事をしていたときです。食堂の賄いの人たちも例によってパートさんなのですが、そのなかに1人の若い女性がいました。かわいい娘さんなのですが、その母親が、私が日本人であることを知ると、いきなり「娘を2000バーツ(約1万円)で買ってくれないかい」と聞くのです。よく分からないので同僚に説明してもらうと、なんでもかの地で働いていても娘の先は見えている。このまま貧しく一生を終わるよりも、あなたがこの子を買い取って日本に連れていってくれれば、彼女は幸せになれるであろうとのこと。丁重にお断りしましたが、これも親心なのでしょうね。

バンコクに戻ると、またタイ語のお勉強を続けましたが、そのうちまた1人のパートさんがうちのセクションに配属されてきました。彼は東北部出身の、大学を出たてのぼっちゃんでした。しかしその出身大学は、タイの東大といわれるチュラロンコン大学でした。コンピュータ専攻ではなかったものの、大学でパソコンを自作したこともあるとのこと。ちなみに、当時タイでもっともポピュラーなワープロは、チュラロンコン大学で作られた、DOS上で動く「チュラロンコン・ワード(略してチュラ・ワード)」でした。こんな人でもタイでは就職が厳しいのです。彼の月給は当時1700バーツでした。これでは部屋代を払ったらいくらも残りません。大学を出てタクシーや(あのサウナのような)バスの運転手になる人も多いとのこと。

彼といろいろ教え合っているうちに、初めて仕事が舞い込みました。RIA(*1)セクションという、私の想像を超えたところにいる(^^;研究員が、現在使っているプログラムが使いにくいので改良して欲しいというのです。彼女は英語も話せるし、日本での研修にも参加したことがあるらしく、片言の日本語も話せました。チュラの秀才を連れて、さっそくヒアリングを開始しました。

そのシステムは、時系列でサンプリングしたデータをもとに、最小自乗法(*2)を使って一次方程式を導きだし、それをグラフィックでプロット(*3)するというもので、たぶん日本語でちゃんと仕様書を書いてもらって説明を受ければ、それほど高度なものではなかったようです。しかし、超文系の私にとって数学の説明はタイ語より難しく、また頻発する医学用語(英語)に辟易しました。結局、数学的は部分はパートさんに理解してもらってやさしいタイ語で説明してもらい、医学用語の方は、当時の私の日本にいる彼女(今の妻、彼女は薬剤師です)に電話をして医学用語辞書を日本から送ってもらい、それでぼちぼち訳してゆくことにしました。

改良する対象のプログラムは、セクション長代理の方がBASIC言語(*4)で開発してあったもので、俗にいうスパゲッティー・プログラム(*5)でした(^^;。しかも、データの入力が逐次的にしかできず、データ入力の途中で1度でも間違えたらプログラムを強制終了して最初からやり直さなければならず、またデータのセーブ(保存)もできないという、そういった代物でした。

使われていたパソコンはNEC製のマシンで、海外だけで発売されていたものです。当時は日本では独自仕様のPC98シリーズが主力でしたが、これは日本だけの例外的な現象で、それ以外の国々ではIBMのPC/XTというマシン(およびその互換機)が主流でした。このPC/XTというのは、のちのIBM PC/ATおよびその互換機(日本では通称DOS/V機)の基礎となったものです。かのNECのマシンは、ソフトウェアでXT機能をエミュレート(*6)するという、ちょっと毛色の変わったマシンでした。これでdBASE-II(*7)などが走っていたものです。

仕様さえ分かってしまえばこっちのものです。このプログラムを全面的に書き直し、データの入出力と画面項目の修正機能を備えた、まあまともなシステムを作ることができました。これである程度の評価を得ることができ、やっとスタッフの一員として認めてもらえるようになりました。