第1回.協力隊に合格するまで

 初めてコンピュータ業界でメシを食うようになったのは26才の時でしたので、プログラマとしてはかなり遅いスタートでした。この業界は、できる奴とできない奴の差が(大袈裟ではなく)「無限大」に達します。一般的には、2割の「まあまあできる奴」が2割の「ゴクツブシ」を食わせてやりながら、あとの6割が可もなく不可もなく過ごして行く、といったところでしょうか。私は一応2年間専門学校に通いましたので、必要最小限の知識はあったはずなのですが、そんなものではお客さんに納品する品質のものを作れるはずもなく、最初の半年間は、タダ飯を食わせてもらっていることに非常に悔しい思いをしたものです。毎日定時に退社すると、夜中までコンピュータの本を読み漁っていましたっけ。

 そんな私でも、1年もすると一応のプログラムを書けるようになり、なんとか「6割」の仲間入りができるようになってきました。入社後2年もたつと、わからないことがあっても社内には聞く人がいなくなります。当時はインターネットやパソコン通信などという便利なものはまだなく、そもそも「ノウハウを共有しよう」などという風潮自体がなかったような気がします。いまとなってはWeb上で誰でも検索できるような些細なことが、たまたまそれを発見した人or会社のノウハウとなり、それは絶対に他社へ漏らしてはいけないことでした。

 会社で働いている先輩や同僚を横目で見ながら「もう彼らから学ぶことはなくなったな〜」と漠然と転職を考えていた私の目に飛び込んできたのが、電車の吊革にぶらさがった青年海外協力隊の広告でした。一度も海外に出たことがなかった私は、「何かタダで海外にいけそうだゾ〜」みたいな不埒なことを考えつつ、気がついたら応募してしまってました。昔から「考えるよりは、まず行動」みたいなところはありましたね。

 1次試験は、はっきり言って受けたかどうかも定かでは無いほど記憶のかなたですが、英語(および外国語への適性を見るための人工語)と職種ごとの専門領域の試験があったと思いました。専門の試験はユニークで、試験場ではすべての科目の試験問題が配られ、受験生は問題を見てから志望職種を変えてもいいのです。ただし合格してしまったら、受験した科目の職種で配属が決定されるようです。私はSE(システム・エンジニア)で受験したのですが、記述式の試験で、どうも矛盾したことが書かれているような気がしたので、「この問題はXXにおいて矛盾している。よって回答不能」みたいなことを書いた覚えがあります。どうせ受験料はタダだし、転職先の候補の1つぐらいの、自由な気持ちで回答することができましたね。

 こんないいかげんな回答を書いたら、何と2次試験の案内が来ました。どうも合格してしまったらしいです。

 1次試験は各都道府県で行われますが、2次試験は東京だけで行われます。上京旅費なども負担してもらえました。2次試験は面接と身体検査で、面接は「技術面接」と「一般面接」(何ていうのかわかりません。要するに、海外にボランティアで出て行くという面に着目した質問)が行われました。面接は大した事はなかったのですが、「彼女はいるか」などの質問の時はちょっと戸惑いました。当時彼女はいた(今の妻です)のですが、「いるけど、別に行くのに反対されることはない」みたいな回答をしたと思います。技術面については、今までやってきた業務についてと、途上国にどうやって技術を伝えるか、などを聞かれたんでしょうけど、残念ながらこれも覚えていません。希望の派遣国については、英語がやりたかったので「フィリピン」と答えました。(当時はアフリカ諸国でも英語を使っているところが多いなんて知らなかったし、たとえ知っていたとしても、自分の体力ではアフリカはきつそうだった。)合格しても、希望の国に行けるとは限らないなどの念が押されました。

 その後自宅に電話があって、タイにならあなたを派遣できるがどうか、ということでした。白状すると、ここで「ネパール」や「バングラデシュ」や「アフリカ」に行けと言われていたら、多分断っていたでしょう。理由は、体力も全然自身がなかったし(体育はいつも5段階の1か2)、食べ物の好き嫌いがすごかったからです。例を挙げると、おでんに入っている大根を食べられるようになったのは、タイにいってからです(^_^);。

 タイっていうのはたしかアジアにあったぞ、というくらいの認識しかなかったのですが、観光でも結構有名だったし、日本人観光客がたくさん行くということはそれなりの設備も整っているはずだという打算的な思考が働き、めでたく私はOKの返事をして協力隊員のはしくれとなったのでした。